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それは全く、いつもと変わり映えの無い夜だった





――――――はず、だった。















     ★















夜空を切り裂くように吹き抜ける風は、密集したビル群の所為か鋭く怪盗の身を突き刺し、そしてすり抜けてゆく。けれどハンググライダーで飛ぶには絶好のそれは、怪盗を予定通り事前に定めておいた中継地点へと誘った。
トン、と業とらしく音を立てて着地しても、わざわざ反応を返す人影などありはしない。―――否、もしかしたらこの深い闇夜に紛れて虎視眈々とこの白い標的を狙っているのかも知れないが。とりあえず騒がしいいつもの追っ手は、この夜中に赤いサイレンをけたたましく鳴らしながら、手筈通り正反対の方向へと音を遠ざけていた。

―――おかげで此処は、世界から取り残されたかのように、ひどく、静かだ。

オフィス街の、しかも草木も眠る丑三つ時と来れば、それも致し方ないことかも知れない。
並木道に暗い影を落とすばかりの街は、掻き消えるサイレンの音を遠く、ひっそりと眠りに就いている。
どうか、この欄入者の所為で起こすことのないように、と。
それはいつも願っていることでもあるし、同時に無駄な願いだと知っていることでもあった。
予告状を出している限り、それは仕方の無いことだ。人の気配など今のところ感じられない、とは思っていても、どうせ奴等はどこかの隙間から、揺れる白い影を、獲物に狙いを定めた獣の如くじっと見据えているのだろう。

はて、と怪盗は優雅な動作で手を顎に当て、思考体制に入った。特に観客がいるわけでもないのに動作まで意識してしまうのは、既に染み付いた習性故か、或いは招かれざる客を想定してショーをしているのか。
どちらにせよここにきて怪盗が考え込んだのは、どうにも周囲が静か過ぎるほどに静かである所為だった。
それはきっと、都会と云えど公害が叫ばれ疲れきった現代社会にあって、歓迎されるべき事態のはずだ。―――はずだが、しかし。

これはまるで……まるで、そう。緊張の糸が張り巡らされているかのような。


(……しかも、まるでオレは眼中に無いかのような)


この予告の夜に、この中継地点と定めた場所の周囲でこんな睨み合いが起きているという以上、怪盗が関係無いわけはないのだが。
自身も気配を消して空気に身を溶け込ませてみれば、アサシンたちの小さな囁きがざわめきのように拡がっているような、そんな気さえした。もちろん、その正体や場所までは特定させることはないのだけれど。
それでも、常は何の変化も見せず仕事を行なうプロにしては、珍しいことだ。
これは、もしかすると。


(折衝した、かな)


案外犯罪組織なんてごろごろしているものだ。元よりの狙いにしろ偶然にしろ、目標である怪盗を余所に権力同士かち合ってしまったというのは、在り得なくも無い話と云える。
何にしてもこれでは迂闊に動けまい。もしこれで関係なかったはずの組織にまで目をつけられるようになってはヤバイのだし。

ふむ、ともう一度考える素振りをする。そして空気の流れが変わった、その、刹那
風に紛れて無防備な屋上のコンクリートをトン、と蹴り、マントを風に乗せ姿を隠し―――





































まさかこんなところで出逢ってしまうとは、夢にも思ってなかった。







































「えええええ……?」
「……うるせぇ」


姿を隠す、とは云っても、飛ぶわけにもいかないのだから、一階下の踊り場のような場所に降り立っただけの話だ。
上手い具合に窓もあるのは念のため調査済みだったので、様子を見るのに丁度良いと思っていたのに、そこには既に先客が居た。
しかも身を潜めている、というよりは……


(く、寛いでる……)


片方の足を投げ出して、折ったもう片方の膝に腕を乗せている姿は、寛いでいる以外の何者でもない。
それでもこの空気には気付いているのだろう(と信じたい)し、まさかそんな中で怪盗を徐に捕まえるということもないだろう(と信じたい)。
寧ろこの気配にだけでも気付かなかった自分を責めたいくらいだ。いや、責めるべきだ。
思わず唸った怪盗に五月蝿いと吐き捨てた当人は、寛いだ体制のままで窓から視線を外さずにいた。
警察の救世主、平成のシャーロック・ホームズと称される名探偵のことだ。どれだけ前から居たのか知らないが、状況は恐らく怪盗よりも把握してくれているのだろう。


(……暗号解いた割に、今日は来てないと思ったんだよな)


この探偵のおかげで随分早い時期に暗号が解かれたことは知っていた。
おかげで警備に力を入れる時間があったらしく、すこし凝っていた。けれど怪盗からすれば梃子摺るとまでは行かなくて、探偵の姿も見えないし、これは見限られたかなと思っていたのだ。
探偵はどうにも怪盗には興味が無いようで、今までいくらさりげなく呼びかけてみても見向きもしなかったから、諦めてはみたけれど彼が来ない警備なんて張り合いがなさすぎて、ちょっとばかり暗号のレベルを下げてみた途端に警察の方がプライドを金繰り捨てたらしく、探偵に声がかかるという有様だった。
だからてっきり、レベルの低い暗号に、現場も期待できないと匙を投げられたかと思っていた。
と云うか、レベルを下げたのに解けない警察ってどうなんだ、実際。
八つ当たりしても仕方が無いのは十分承知の上だが、何にしても擦れ違いばかりだ、と思う。
だけど漸くこうして関わりを持てたことを、一体喜んで良いのか哀しむべきなのか。


「あの……」
「何だよ」


声を潜め、視線は外さないまま、けれど答えてくれる気はあるらしい。
怪盗はすこしづついつもの調子を取り戻し、気配を絶ちながらも尋ねてみた。


「ここで、何を?」
「―――張り込み?」


きょとん、と小首を傾げながら問われても、一体どうしろと云うのか。
しかも一応緊迫した空気の中、視線を合わせることは叶わないのだから怪盗としてもどう返すべきか考えあぐねた。
そりゃ、張り込みしてたら怪盗の現場なんて来られないだろうが。
という事は、もしやこれは、一課の領域、というやつなのだろうか。この蜘蛛の巣のように張り巡らされた緊張の糸の要因が、殺人事件の犯人だとでも?


(……それにしては、随分手練ている)


居るのは判る。けれどそれだけだ。それだけ、熟練されている。それに、警察の気配は一切感じられない。
ならば、この探偵のお客様、ということなのだろうか。そう考えるのが妥当な線だ。
けれどそれにしては、随分怪盗にとっても慣れた気配だった。
そりゃこの名探偵がぶっ潰し今も残党と敵対する組織は、怪盗のそれと同じではないにしても似たようなものではあるけれど。
ここはひとつ、素直に聞いてみようか。
恐らくこの探偵は、こうなった場合に怪盗がこの場に降り立つことを知っていたはずだ。それでも普通に対応している辺り、この状況で敵対するつもりは無いことだけは確かだろう。


「不粋な客が随分と多いようですが……」
「良い夜なのにな」
「―――名探偵が連れてきたんですか?」
「…………」


この場合の沈黙は肯定と取るべきか。それとも奴等が動き出す気配でも察したのか。
しかし肯定だとしたら、それはそれでショックな怪盗だった。だって予告を違いなく解いた探偵は怪盗の逃走経路も把握しているはずで、その上でこの場所を選んだとしたら。
サッと青褪めた厭な予感は、得意のポーカーフェイスで何とか押し留めた。
名探偵に限って! と云い切れないのが哀しいところだ。
この怪盗の騒ぎに乗じて、とか本気で考えて居そうで怖い。
けれどそれはそれで、怪盗に対するアクションを一切起こさないのが不思議だった。
反問に反問。怪盗の想像範囲の上を行くどころか、すっ飛んで全く別のところをふよふよしている探偵の思考回路なんか、いくら考えても答えが出るはずもない。


「あの……」
「何だよ」


即答で問い返す割に、さっきの怪盗の問いに答える気は毛頭無さそうで。寧ろあっさりすっぱり綺麗に流されたような。
だから怪盗としては、話し掛けた手前、空気の読めない男だと判断されるのも厭なので他に気になっていたことを訊いてみるしかなかった。




「その、アンパンと缶コーヒーは……」


しまった、余計空気読めない男じゃないか、と思っても後の祭り。咄嗟に出たのは、かねてより気になっていた、どうでも良いような良くないようなことだった。
けれど探偵は構うことなく、ちらりと怪盗に視線を移して、すぐにまた窓の方へ用心深く視線を戻す。
その静寂を映す瞳が、何でかとても怖かった。


「バーロ、オメー、張り込みっつったらアンパンだろーが」


呆れたように吐かれた台詞に、毒気を抜かれる。
あまりにも状況に合って無い(気がする)言葉を受けて、怪盗はええと、と唸り探偵の顔からすこし下へ視線をずらした。探偵をよりいっそう寛ぎスタイルに見せるためのアイテムとして、その二点が足元に無造作に置かれている。ご丁寧にコンビニの袋つきだ。
しかも煙草に携帯灰皿まで未使用のままあるとなれば、これはもうアレしかない。(そりゃ張り込み中に煙草を吸うわけにはいかないだろうが)


「でも、食べてませんね」
「腹減ってないし」
「じゃあ何で用意したんですか」
「オレは形から入るタイプなんだよ」


探偵は実にあっさりと答えてくれた。


「……初耳です」
「まあオメーとか、オメーにラブコール送ってる探偵かぶれほどじゃないから安心しろ」
「……どういう意味ですか」
「着眼点は衣装だな」


形から入るも何も、初めからデフォルトで用意されていたのだから怪盗としても対処の仕様がない。あの白馬鹿はどうであれ。
……と云い切れないことが、多分今までで一番もどかしかった。だって親父が、とか今にも云い出しそうなオレよ、どうした。


「……安心と云われても、」
「ついでに云えば、この闇に紛れたオッサンたちもな」
「は……?」
「考えてもみろよ。いくら闇に溶け込むためだっつったって、常に黒コートはねーだろーよ。今時そんなの、悪人と変態だけだ」
「……そうですね」


いきなり饒舌になった探偵に、もう何を云う気も削がれた。いちいち的を射ている気がするのもいただけない。詭弁のようなのに、正論に聞こえるのだ。いや、逆かも知れない。


(つか、こんな悠長に話してる場合か?)


気配は均衡しているらしく、動き出す様子は無い。けれどいつ隙を見せるか判らないのだ。
それなりに場数を踏み、自信はついたと云っても真っ向勝負はご遠慮願いたい相手だと云うのに。いや、真っ向勝負をしないから暗殺者なのか、とか、いやいやそんなことはどうでも良い。どうでも良いんだ。


「あの、」
「何だよ」
「これが、全部私の敵だとして」
「おう」
「……貴方がいらっしゃる意味が判りません」
「だからオレの客だと? 安直だなオメー」


探偵は言葉の通りの呆れたような表情をしていたが、それで怯むような怪盗ではなかった。


「しかし、」
「云ったじゃねーか。張り込みだってな」
「……情けは受けませんよ。借りもつくりません」


探偵の意図が、読めない。ポーカーフェイスをかなぐり捨て、眉を顰める怪盗に、しかし探偵は呆れ顔を深めるばかりだ。


「アホウ。誰も助けるだとか云ってねーだろーが」
「では、何故」
「オレは探偵。謎を追い求める探偵だ。事件と謎がある限り、どこにだって行くんだよ。それが表立たないものでも、コソ泥の敵でも、何ら関係ねぇ」
「は、ぁ……」


相変わらず、正しいような正しくないような持論を淡々と語る。否、彼にとってはそれだけが正しい真実であるのだろう。思わず呑み込まれそうになった怪盗は、視線を下に向け、探偵に形からと云わせしめた己の衣装を見た。
探偵の云い分が思い返されてちょっと哀しい気分にはなるものの、今、自分は“怪盗キッド”なのだと、自覚を促すには充分だった。
目には目を、歯には歯を。毅然な態度には毅然として返す。それが、怪盗としての矜恃だ。


「それが、貴方の真実ですか」
「ああ、そして利用できそうなものは最大限利用するのがオレの信条でな」
「……私ですか」
「理解が早くて助かるぜ」
「敵同士、ですよ」
「何云ってやがる。オメーが犯罪者なだけだろーが」


ざくり
どこか突き刺さったものを感じたけれど、気付かないふりをした。
そうだ、探偵は間違ったことを云っているわけではない。オレ様なわけでもない(この点に関しては)。
怪盗が犯罪者で、探偵はそれを捕まえようとしているだけ。怪盗にとって探偵は追いかけてくる敵には違いないのだとしても、探偵にとっての怪盗を表す言葉として、敵というのは奇妙しいと、そう云いたいのだろう。
同じフィールドに立っているようでいて、実は正反対の場所に居るのだ。
それは、厭というほど判っている。怪盗はそれだけの覚悟をした。だから、今更傷つくようなことでもない。


こんなのは、慣れた、こと だろう?


探偵に気付かれないよう、怪盗はそっと胸に手を当てて、湧き起こる感情を押し流す努力をした。
落ち着いてみれば、それは極簡単なことだった。


だが、それにしては釈然としないものを感じるのは―――

















「……この日本で銃を持つのは、立派な犯罪ですが」
「このオレがバレるような、そんなヘマすっかよ」
「いえ、バレるバレないとかの問題ではなくてですね」
「オメーだって、バレてない間は普通の高校生で、そんでバレる気なんかこれっぽっちもねーんだろうが」
「そ、うですが……」


何か論点が摩り替えられているような。
というか、聞き捨てならない言葉を聞いた、ような





高校生?





………それを、何故?










「無意味な論議は後回しだ」
「あ?」
「そろそろ痺れを切らすぞ」
「お、おう」
「オメー、左な」
「……判った」
「安心しろ、撃ちはすれど当てはしない」
「……そこは別に心配してないけど」


いつの間にか協力体制が整ってたりだとか、怪盗の口調が素になっていたりだとか。
何だかそんなのすっ飛ばして、探偵がそれはもう綺麗に笑っちゃってくれたりするものだから


「ノーミステリー、ノーライフ」


うっかりその横顔がカッコイイ…! とか思っちゃって、飛び込んで行った背中がこの上なく頼もしかっただなんて、これは怪盗紳士として如何なものだろう。
とりあえず探偵で、それ以前に日本人の高校生のくせにその銃の扱いの上手さは一体何だろう、とか思ったりした(しかしそれはひとのこと云えない)が、それはまあ、名探偵だしの一言で片付けられる辺り末恐ろしい。
それでも、その無意味な論議を後でしてくれる気はあるんだよな、と思うと、さきほど突き落とされた気持ちは何処へやら、うっかりうきうきしてしまう怪盗だった。


バレる気はないのだろうと、探偵は云った。
なら、お前は捕まらないのだろうと、そう云っているのだ、彼は。ただそれはきっと、だからお前を捕まえないと、そう云っているわけではなくて。


ああ、だから堪らない。だから彼との対決は好きなのだ。探偵と犯罪者、その括りしかなくたって、それでも良いと思ってしまうくらいには、彼が自分を捕まえにきてくれるのを愉しみにしている。


(……オレって、マゾだったんかなぁ)


ああ、でもあの探偵は間違い無くサドっぽいなぁ
謎がどうとか云ってる割には、愉しげに銃をぶっ放してる背中を見て、何となく怪盗はこの先が思いやられて重いため息を吐いた。
けれどその一方では、さてどうやって自己紹介なんぞしてみようかと考えているのだから救われない。どうせ知られているのなら、彼の想像の斜め上を突っ走ってみたいではないか。

だって、探偵だって云っていた。


ノーミステリー、ノーライフ
刺激がなきゃ生きていけないだろう?


その点、怪盗は探偵を生かす自信も、また相手も己を生かしてくれるだろうという確信もあった。
だから、まだ、己の決めた道を走っていける。その方向を選んだのが己の決意ならば、それを道に固めてくれるのが相手の存在だ。









全くいつもと同じはずだったふたつの夜が、交差したそのとき―――

静かに凪いでいたそれぞれの夜は、憂いを呑み込み愉悦に波立った。





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退

そして今日も、を駆ける。