「風邪ね」 先程から隣で心配そうにうろうろする快斗に呆れつつ、哀は半ばため息まじりに言葉を発した。これはもう大体予想してたこと。 しかし、心配ないわと快斗を安心させるように云おうとしても、快斗は安心しきれないようであった。 そんな2人に囲まれたベッドで今穏やかな眠りに付いているのは、この家の主・工藤新一。彼は今、些か顔色が悪くはあるが、規則正しい吐息を吐いていた。 |
それはほんの30分程前のこと。 そろそろ寝ようかと、地下室のパソコンの電源を落としたところで鳴った電話。余りにもタイミングの良すぎるそれに、大体の内容は察知して哀は苦笑を漏らした。どうせどちらかが無茶でもしたのだろう、と。 予想に違わず、深夜に電話をかけてきたのは快斗だった。「すぐに来て!」と症状も言わずに慌てる快斗を宥め、一通りの検診具を持って隣家へと向かう。案の定2階の私室のベッドで、新一がいかにも帰ってきたまま、という出で立ちで唸っていた。とりあえず検診をして、苦しそうなのは熱の所為だけで大した問題もないと判断した哀は、薬を飲ませて落ち着くのを待った。 その間も、快斗はせわしなく部屋の中を歩き回っている。 「ホントに? ただの風邪だよね!?」 「ええ。心配ないわ。まあ、疲れから来てるのもあるでしょうけどね……」 哀に呆れ気味に言われて、快斗は新一が近頃警察からの呼び出しが頻繁なことを思い出す。もちろん帰って来るのが遅ければ、疲れているのだろうと相手をして貰うのを諦めて新一を早く寝かせて、自分も別の部屋で寝るようにしていたのだが。もしかすると今自分の目の前で寝ているこの男は、その後こっそり起き出して本でも読んでいたのでは……と嫌な考えが過った。 快斗が眉を顰めるのを見て、哀もおおよそのことは予測がついたのだろう。ますます呆れたようなため息をついてみせた。 「今日も呼び出し?」 「そう。さっき帰ってきたんだけどさ、すんごい苦しそうなんだもん。その時はまだ意識はっきりしてたんだけどね、とりあえずって思って部屋に連れてきたら途端にふらってして。きっと精神力で此処まで持たせたんだろうねー」 すごいよねーとあまり感情の篭らない棒読みで台詞を続ける快斗に、哀はあからさまに呆れたため息を漏らした。 「……車の音、した?」 「ううん。歩いてきたんだと思う」 「警察に遠慮してる場合じゃないでしょうに」 「俺たち、振り回されてるよねー」 「あら。貴方は望んでその地位を手に入れたんじゃないの?」 哀に同意を求めるように嘆いてみれば、思いっきり図星なことをズバリ言い当てられてしまって快斗はたはは……と頬を掻いた。 「それより黒羽君。貴方も相当疲れてそうよ?」 新一を待ってて、寝てないんじゃない? と。つまりはそう言うことだ。 「まーね。新一程じゃないけど」 そう、何でもないことのようにさらりと笑顔で告げる快斗に、しかし哀は眉を顰めた。 「これで貴方まで倒れたりしたら、私には二人一気に看病するなんて無理よ?」 それは、言外に「ちゃんと寝なさい」と云っているようなもの。快斗は隣人の少女の不器用な優しさにふわり、と笑みを浮かべた。 「そうだね〜。でも、新一が目覚めるかも知れないし……」 「それはないから安心して。少なくとも、明日の朝までは大丈夫よ」 「え……?」 妙に確信しているように即答された言葉。先程のほんわかモードも何のその、快斗は一気に哀に対して疑いの眼差しを向けた。 「嫌ね。そんな目で見ないで頂戴」 「だって……」 「私、男の“けど”と“だって”は嫌いなの」 「……スイマセン……」 どうやってもこの幼き依り代をした少女には勝てない。弱気モードに入った快斗を見て、哀もクスクスと笑いを漏らした。 「哀ちゃん……?」 「別に、心配することはないわ。睡眠薬とも呼べないような、軽い安定剤を飲ませただけだもの」 「あ、そうなの?」 「ええ。まあ、それだけでこんなに穏やかに眠れるっていうのもどうかと思うけどね」 「……疲れてるんだね……」 いつもと比べて、快斗はいまいち波気がない。幾ら普段から構いすぎるほどに気に掛けている恋人が倒れたとは云え、単なる風邪なのだし、こんなに暗くなることはないのではないだろうか。 「まあ、工藤君は朝までその調子でしょうし、私たちも少し出てましょう」 「でも……」 「寝てる人間の近くで話すのは良くないわ。特に、気配に敏感な工藤くんのことだもの」 「そだね……」 やっと快斗も納得するように、哀に続いて部屋を出た。 「あ、じゃあコーヒーでも炒れるから、リビングに行っててくれる?」 「有難う」 深夜という所為もあって、カチャカチャと快斗が食器を扱う音がリビングにもよく響く。哀はそんな音を聞きながら、キッチンの影に隠れて見えないでいる快斗の方をただじっと見ていた。 ―――どう見ても、おかしいのだ。 本人は持ち前のポーカーフェイスで普段通りを装っているつもりのようだが、それでも何か、何処かがおかしい。 流石は天下の怪盗キッド。その変化は万人には決して分からないのだろうが―――闇の世界に生きてきた者として、自分はこういった気配には敏感である自信がある。 その自信を元に導き出された結果として、やはり彼は何処か変なのだ。それが何かは分からない。彼は彼にしか分からない深い傷と重い何かを背負っていて、他人にそれを踏み込ませないようにして生きている。 恐らく、今まで其処まで辿り着けたのは、今は階上で深く穏やかな眠りについている工藤新一、ただ一人なのであろうが、それでもお互いに踏み出せない場所はあるのだと思う。秘密とは少し違う。聖域、とでも云うのだろうか。自分自身でさえも其処に簡単に介入することは罷りならない、しかしそれがなくなってしまったら自分が自分として生きてはいけないくらいの、大事な大事な秘めた聖域。其処は決して重いものではない。何かは分からない――けれど、罪の意識とは正反対のものがあるからこそ、簡単には踏み込めない楽園。 そしてそれはもちろん、自分も同じ。 だから、今快斗が何を想いこんな状態になっているのか分からない上は、簡単に踏み込んでいいものかどうか分からないのだ。―――恐らく、その原因の一旦は新一にあるのは確かであろうけれども。 哀は静かに、しかし深くため息を吐いた。 この場合、その原因である人間の方が良いのか、第三者である自分が相応しいのか判らない。 「どうしたの? ため息なんかついちゃって」 しかし、コーヒーを煎れてリビングに入ってきた人間はまるで何事もなかったような口調と表情と態度で接してくる。 それが―――つまりは、哀の勘に触ったわけである。 こんな男のために、わざわざ自分が思い悩む必要などないのだと。 「―――何かあったの?」 そう判断した哀は、もう思いっきり単刀直入、ストレートも良いとこで訊いてみた。 「え?」 「貴方が、よ。何処か奇妙しいわよ」 「俺が?」 「そう」 「そんなことない、と思うけど……」 それはやはり自分で片をつけたい、と言うことか。 哀は自分の差し出がましさに少しだけ嫌気が差した。 今までは、見てみぬふりをしてきた筈である。 「そう? なら良いけど。見てて気持ち悪いのよね」 「キモチワルイって……」 「言葉の通りよ。覇気のない黒羽くんなんて、まるで脱ぎ捨てて形どったままの手袋だわ」 確かに脱ぎ捨てたばかりの手袋は手のままの形をしていて、そのまま床に置いておけばまるで手だけが其処にあるようで酷く奇妙だ。 そして、快斗はまるでそのままだと云われている。 「ヒッド! 何ソレー。例えがオカシイよ」 「御免なさいね。でもそう思ったから」 「うーん? 中身がないってコト?」 「そうとも云えるわね」 「ふーん……そうかなー。そんなにぼーっとしてる?」 「もしかして自覚ナシ?」 「うん。別に何にもないんだけど。何でだろ……」 何もない。 それは、哀の心配は杞憂に終わった、と云うことだろうか。 しかし、それはそれで良いとも云えない。 自覚ナシでこの状態、と云うのは快斗の常では有り得ないことだ。 これは思ったよりも重症だ、と哀は頭を抱えた。職業柄、生活態度、そして性格などから云っても、快斗は新一よりはよっぽど体調管理には気を付けている筈である。今のこの様子では、身体にも何らかの症状が出ていて良い筈だ。例えば、身体が何となくだるい、とか。そんな些細なことでも、夜空を駈ける彼にとっては重要なことだ。 それなのに、気付いていない、とは。 哀は一応、ソファから立ち上がって手を快斗の額に当ててみた。 「……熱はないわね」 「オレ、そんなに奇妙しい?」 「工藤君の風邪でもうつったのかと思ったんだけど」 一応、下瞼も見てみるが、少し白いくらいで、特に貧血と云うほどではないようだ。 「もしかして、オレがうつしたとか」 「有り得ないことはないけど……多分、彼のあれは疲労からでしょう。風邪と云う程の症状があるわけでもないし」 新一のアレは、疲労。身体が小さくなったりを繰り返しているのだから、抵抗力が弱っているのもある。しかし彼はそれ以上に、無茶をし過ぎるのだ。 哀はため息を吐いた。思い当たるふしがあったからだ。新一が身体の疲れからくる疲労なら、快斗のコレは心労なのではないかと。思いついてみれば全く有り得そうで、しかも一番信憑性が高い。新一は今弱ってるから熱も出るが、普段から鍛えている快斗はこれくらいの症状で十分だろう。 しかし―――と、思う。 もちろん休ませることが第一だが、果たしてそれだけで治るものなのだろうかと。例え治ったとして、それは完全に一時的なものだ。 どうしたものか、と半ば呆れ混じりのため息を吐く。 あろうことか、快斗はそんな哀に大丈夫? と問い掛けてきた。 本当に、そんな場合じゃないってのに。 哀がどんなに心配して呆れたようなため息を吐いたところで、本人に自覚がないなら無理にどうすることも出来ない。 まずは一晩様子見でもしようと、今日は帰ることに決めた。 「別に、何ともないわ。それに朝までは大丈夫だから、黒羽くんも人の心配してないでちゃんと寝なさい」 「うん、そうする。送ろっか?」 「平気よ。ちょっとの距離だもの。それより、工藤君を安心させるためにちゃんとこの家に居なさい」 「え?」 「判ってるでしょう。彼は人の気配に敏感なの。裏を返せば、心を許した人間の気配は逆に落ち着くってことよ」 「そう、かな……」 「そうよ」 「そっか」 哀の言葉に快斗が何処か安心したような笑みを浮かべるのに、、知らず哀もつられて微笑み返す。 「ええ、じゃあお休みなさい」 「うん、お休み」 パタン、と閉じられた扉の向こう。 夜の帷は静かに闇の住人を包み込み、去ってゆく彼女の足音まで深く響く。 快斗は一人、どんな顔をしたら良いものか、哀を送り出した笑顔のまま固まっていた。 「お邪魔するわよ」 翌日、朝哀が学校に行く前に新一の家を訪ねると、昨日あんなに人を騒がせた張本人である新一が優雅にも新聞片手にコーヒーを飲んでいた。 「あ、灰原も要るか?」とコーヒーマグを持つ手を上げる彼は思いの外元気そうで、安心する。だが、もうひとつの心配の種がそのままだ。 ゆっくりしている時間はないから、と断ってから快斗の所在を訊くと、新一は済まなそうな顔をした。 「悪かったな。昨日、コッチ来て色々してくれたんだろ?」 「お互い様よ、気にしないで。もう平気そうね」 「ああ。ぐっすり眠れたから……」 「まさかまた読書とかで寝てないんじゃないでしょうね」 「違うって。快斗が起きてる気配がするからさ。眠れないんだよ」 「え?」 「気になんねぇ?」 「そりゃ、判るけど……彼も昨日、調子が悪そうだったし」 「だろ? 今は寝てるよ。お前の置いてった安定剤、随分と良く効くのな」 「一応、貴方のために置いてったつもりでもあったのだけどね。意味が伝わったようで、良かったわ」 「まあな。アイツも寝かせときゃ身体の方は平気だよ。精神の方のアフターケアはオレが居りゃ何とかなんだろ」 「それは良いんだけど……随分な自信ね」 珍しいわ、と呆れるよりも驚いてしまう。 工藤新一の身体に戻ってから、彼が気に掛けて自ら側に身を置くのは後にも先にも快斗ひとりだけだ。 「最近、呼び出しが多すぎる自覚はあったし……でも流石に昨日は現場でもオレやばそうだったらしくてさ、休養取るように目暮警部に云われちまったよ」 「あら。じゃあ当分は呼び出しもないのね?」 「よっぽど難しい事件でも起きない限りはな。そっとしておいてくれると思うぜ」 「丁度良いわ。私はこれから学校に行くけど、帰ってきたらもっと細かく検診しましょう。流石に今日はゆっくり寝ているつもりでしょう?」 「まあな。快斗の様子にも拠るけど……」 「別に彼は特に体調が悪いわけではなさそうよ? 逆に貴方が寝ていてくれた方が治るんじゃないかしら」 「耳がいてぇな……」 「心労なのは明らかだもの―――あ、そうだわ」 「? 何?」 「ひとつ、彼が治る確実な方法が判った気がするんだけど……」 「何だよ」 「貴方が一緒に寝ればいいのよ」 「―――はいー?」 そうだわ、何で気付かなかったのかしら。 珍しく哀が楽しげにしていることに、新一は喜んで良いものかどうか判断がつかなかった。 けれど、自分の気持ちというものはともかく、確かにそれは効き目がありそうな気もしたので曖昧に「そうかもな……」とだけ返しておく。 壁一枚隔てて寝ている今、隣りの気配がどうしても気になってしまう。しかも、ずっと起きているような気配なら尚更だ。きっと快斗は快斗で、そうして起きている新一のことが心配なのだろうけど。 「だって貴方が云ったのよ。黒羽くんの体調―――主に精神的なものを、良くするのも悪くするのも自分次第だって」 「いや、云ったけどよ……」 「良いじゃないの。多分矜持だとか普段他人が居る場所でおちおち眠りにつけない所為で渋ってるんでしょうけど、逆に安心するってコトもあるかもしれないわよ?」 「ううーん……」 「何よりベッドは広いんだし」 そういう問題かよ、と肩を落とした新一を尻目に、哀はとっとと学校へ向かうことにした。 きっと、放課後寄ってみたところで並び合って眠る双子のような彼らを見ることが出来ると思って、その顔は珍しく綻んでいる。 だから、実際あの新一が折れたところを想像してそっと気配を殺して入った部屋で、夕陽を背に隣りで眠る新一の髪を嬉しそうに撫でていた快斗を見たときは、驚いたような納得したような複雑な気持ちだった。それでもその快斗の顔に、昨晩のような翳りは全く見られなくて。寧ろ穏やかに、至福の時を刻んでいた。 ああ当てられたわね……と、些か眩暈のするような気持ちで哀は大人しく退散することにした。 当分は、自分の安眠妨害もされずに済みそうだ。もう二人のための安定剤など必要ないかも知れない、ということにほっとしたような、少し寂しいような気がした。 |
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