午後の嘘







April Fool.





























妙な胸騒ぎがする。


しかしそれは決して悪いことを象徴するものではなく、どちらかと云えば良い出来事を心待ちにしているような感覚であった。探偵という職業柄と過去の経験から、こういった予感には自信がある。
新一は逸る気持ちを抑えて、夜風に当たって落ち着かせようと、気の向くままに夜の散歩を楽しんでいた。
今日は4月1日。エイプリル・フールである。そのことに思い当たった新一は、クスと楽しそうな笑みを浮かべた。


(そー云えば最近エイプリル・フールだからと言って嘘ついたりつかれたりとかしてねーな)


まあ高校生ともなれはそれも当然だろう、と思う。こんな歳になってまでそんな日を利用して嘘を付く奴なんて……と考えたところで、一瞬白い影が頭の中をよぎった気がした。


(いや、いたか……)


白き魔術師、怪盗キッド。
そう云えば彼はわざわざこの日にウソの予告状を出していた。


「そー云えば、あれからもう一年か……」


あの、屋上での邂逅の日から。
正に怒涛の一年だったと、新一は瞬時に駆け巡る過去の映像を一度途切らすようにため息を吐いた。
この一年、本当にいろいろなことが起きた。人の人生様々とは云え、ここまで一年と云う短い期間の間にこれだけのことを経験をする人間もいないだろう。

そんなことを考えつつ、今まで当てもなく動かしていた足が、自然と杯戸シティホテルという一つの目標に向かって歩いていた。










4月になったとは云え、まだ少し肌寒い気温に顔を顰めて屋上へとつづくドアを開ける。
ひとり過去の情景に触れてこの時間を楽しもうと思っていた新一は、その場にある気配に気付いてその整った眉を顰めた。
しかし、その覚えのある気配と視界の端に白い影の存在を認めると、途端に嫌そうな表情をしてそのままドアの外へと歩を進める。
カツカツ、というコンクリートを踏み締める音が、風の通り抜ける屋上に良く響いていた。


「……こんな折角の日に、そんな嫌そうな表情しないで頂けますか」


白い影の正体である怪盗は、さして気にもしていないようにそう云ってのけた。
それが妙に新一の癇に障る。


「悪いな。お前が居るなんて思わなかったもんで」


仕返しとばかりに極上の笑み付きでそう云えば、怪盗は些か傷ついたような表情を浮かべた。
とは云え、逆光のお陰で顔は良く見えないから、気配で何となく伝わってきただけだ。もちろん新一は、それも彼お得意のポーカーフェイスの上であると踏んだのだが。


「……そんな心にもないことを。今日が記念日と知ってのことでしょう? 貴方が今日この場所へと足を運んだのは」
「ああ? 何だよ、記念日って」
「記念日ですよ。貴方と私の邂逅の、ね……」
「……薄ら寒ぃセリフを吐くなバ怪盗」


顔に似合わない口調に、怪盗は思わず肩を落としかける。
けれど、こんなところで負けるわけにはいかない、と何に対してだか判らない誓いを立ててもういちど向き直った。


「辛辣ですね」
「おりゃひとりで夜風に当たろうと思ってたんだよ」
「それは失礼。けれど、こんな日くらい、この怪盗にその場を明渡してくださいよ」


一時休戦といきましょう。
新一が身体を寄せたフェンスの、傍らを指差してそう告げれば、新一は眉根を僅かに寄せただけでそれ以上何も云おうとはしない。
それを肯定と受け取って、怪盗は静かに身体を寄せた。


「もう一年ですね」
「……だな」
「覚えていてくださったとは光栄です」
「たまたまだ」


何がそんなに嬉しいのかと、問い掛けるように吐き捨てる。
けれど、その言葉に怪盗は更ににこにこと表情を和らげた。


「それでも充分ですよ」
「……お前、」
「はい?」
「表情崩しすぎだろう……」
「良いじゃないですか」


こんな日なんですから。
本当に楽しくてたまらないという中に、ほんの少しの翳りが混じっていたことに気付いた新一は、ああ、とすとんと総てを理解した。
ああ。
きっとこの怪盗は。少し前の己と同じように、真実を取り戻しに行くのだろう。


「だからって、何も俺に会わなくても」
「遭えるとは思わなかったんです」
「じゃあ何で此処に」
「此処は始まりの―――場所だから」


遠くを見つめる怪盗に、しかし、新一は何の、と尋ねるようなことはしない。
きっと怪盗の真意に気付いた新一に気付いているだろうに、怪盗は特に何を云うこともしなかった。


「何で、今日」
「赦されるんじゃないかと思ったんですよ」
「…………」
「例え、戻って来れなくても」
「何を……」
「いえ……莫迦なことを云いました。もちろん片は付けるつもりですから」
「当たり前だ」


少し怒ったような新一に、怪盗はまたしてもふわりと微笑った。


「・・…総て、嘘にして来ようと思いまして」
「総て……?」
「ええ。キッドも、何もかも」
「今、俺に云った言葉も?」
「アレは忘れてください」


どうも、貴方を前にすると云いたくないことも云ってしまう。
罪人の恐れる慧眼とは、このことなんですね。
そう、夜風に紛れてしまうかのように、弱く、か細く。それはいつも自信に溢れる怪盗の言葉とは思えない儚さをもって、新一の耳に届けられた。


「けれど、貴方の隣りは心地良いです」
「……そうかよ」
「ええ。この場所を得る権利を持つ方が、いっそ恨めしいくらいに」


この場所が待っていてくれるのだとしたら、己はどんなことでもしてみせよう。


「お前は持ってねぇって?」
「―――ええ」
「まだ、だろ?」
「え……?」
「一年だ。その間にケリを付けて来い。俺のように」
「名探偵……?」
「まだ俺は誰にも許しちゃいねぇよ」


これでも警戒心は強いんだ。だけど、今日限りとは云え、お前には許したよ。


「ええっと……」


これは私に都合の良い嘘ですか? と本気で迷ったらしい怪盗に、新一はその黄金の右足でゲシ、と蹴りを入れた。


「バーロ。エイプリル・フールの期限は午前中だぜ?」
「あ……」


もう夜も更けた。
嘘を付いても赦される時間は、疾うに過ぎ去ったのだ。


「お前もだ。もう嘘は赦されない。その口に出したことは、何がなんでも実行しろ」
「…………」
「不満か?」
「いえ………では、名探偵」
「あ?」
「予告状を」
「予告状?」
「ええ。来年のこの日に、この場所をいただきに参ります」
「…………」
「それまでは―――どうか」


どうか―――
先をつづけることの出来なかった怪盗に、新一はふッと笑った。


「そうだな……必死に警護して待っていようか」
「…………」
「キッド?」
「ぜひ!」


思わず声を荒げた怪盗に、新一はとうとう声を出して笑った。紳士が台無しだな、と云って。そうして二人で、笑った。
また来年に、この取り巻く空気が戻って来るのだと確信しながら。
それを支えに、独り、この一年を闘おう。










また時は訪れるから、名残惜しくは無い。
キッドの飛び去った空を眺めて、新一はぽつり、と呟いた。


「―――キッド。けれど俺はひとつ、嘘をついたよ」


期限は過ぎたと、判っていながら嘘をついたよ


「此処に来れば、お前が居るんじゃないかと思っていたんだ」


だから、お前に会いに来たんだ


「記念日だということも、知っていたよ」


此処で、初めて対面したんだよな?


「ああ、だけど―――」


お前がまた、来年この俺の前に現れたら。

その時こそ、俺は今日この日をを記念日だと認めよう